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春駒日記




富岡麻紀ひとり芝居「春駒日記」
新宿ゴールデン街劇場
2009年2月22日(日)・3月1日(日)19時~
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<落語の吉原>祇園祭
五代目古今亭志ん生

今年もバレンタインデーでしたね。今回は余談・・・ではないですが、少し珍しい話です。公演がもう迫っているというのに、ますます吉原から離れます。今回の舞台は京都です。

たまたま私が京都出身ということもあるので、京都人の感想から書かせてもらうと、京都人には評判の良くない話なんじゃないでしょうか。そんなことはさておき、祇園の揚屋で祭見物です。最後に出てくるのが何でも欲しがる芸妓です。
ちなみに祇園は公許の遊郭ではありません。京都は島原で、祇園はランク的には下なんです。ただ、遊廓同様の場所もあったし、遊興地という意味では吉原と品川の違いを想像してもらえればと思います。あまり簡単に書き過ぎているので、そうともいえない部分は沢山あるのであしからず。

芸妓は年増の芸者で、舞妓が歳を取ると芸妓になりますね。つまり芸者です。といっても、昔の年増は20代中盤ですから、私自身の私見としては、舞妓は顔で、芸妓は芸で見せるということだと理解しています。

さて、何でも欲しがる芸妓ですが、遊女も欲しがりますね。「下さる物なら夏も小袖」とは圓朝作の乳房榎(ちぶさえのき)の台詞です。小袖は夏に着るものではないんですよ。
つい先日橘屋圓太郎の「文違い」を見ました。なかなかいい出来だったので、ちょっと挟みます。文違いという話には、騙して金を巻き上げる悪い花魁と、惚れさせて金の無心をする客が出てきます。誰しも善かれと思ってやった行為が、ひっくり返ってしまう落語的ダイナミズムの典型です。

で、色々遡ってみると面白い事実に突き当たったりするもので。

寛政9年(1797)、長崎は丸山の遊女「大和路」が、客であったオランダ人から貰った品物の目録が残っています。長崎寄合町諸事書上控から、

「コヲヒ豆但鉄小箱入、一箱、チョクラート、サボン」

実はこれ、日本におけるチョコレートの初めの記録です。おそらくこの時代のチョコレートは、固形のものではなくココアの様な飲み物ですが、花魁はこんな所にも登場するのですよ。

最後にちょっと、「羅紗緬(らしゃめん)」という言葉があります。これは欧米人の妻や妾になった人の事なんです。その昔、西洋人は長い船旅をするから、船に積んだ羊を相手に性交すると、日本人は考えていたのです。そう「羅紗緬」とは羊の毛の事なんです。

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<落語の吉原>三枚起請
五代目古今亭志ん生

そもそも上方の噺です。しかし東京の噺家も多くの人が手掛けています。東京ではやはり志ん生が面白く、つい贔屓してしまいます。

志ん生は「新吉原江戸町二丁目、朝日楼内、小輝(こてる)」と語っていますが、初代円右は吉原京二千歳楼の花山としていたそうです。他にも吉原江戸町三丁目の喜瀬川とか江戸町二丁目水都楼の喜瀬川とか色々あります。

さて「起請(きしょう)」です。この起請の歴史は相当に古い。だから掘り下げません。そもそも起請文とは、そこに書かれた内容について、神仏に誓約した文書の事で、神様に誓いを立てるのです。これが男女の愛の証しとしての起請文となりました。この起請文には、熊野牛王(ごおう)宝印の誓紙の裏が使われました。ちなみに表にはカラスがたくさん印刷されていました。起請文を一枚取り交わすたび、熊野権現に仕えるカラスが1羽死ぬと言われました。そしてもし、嘘を書けばカラスが3羽死ぬとも伝えられてきました。

高杉晋作の有名な都々逸があります。
「三千世界の烏(からす)を殺し、主(ぬし)と朝寝がしてみたい」
これを唄ったのも品川の「土蔵相模」という妓楼だったと伝えられています。
今も昔も、カラスは眠りを覚ます奴で、「烏カアで夜が明けて」というフレーズは談志がよく使っています。

「起請など 貰ってむす子 のりが来る」
「のりが来る」とは、乗り気になっているという意味です。こういう川柳があるくらいですから、三枚起請もあり得る話だったのでしょう。

ちなみに女郎が客への愛情を示すためには、起請だけでなく、髪を切ったり、爪を剥いだりして、意中の客に愛の証を送ったのです。もっと怖いものになると、指を送るなんてのもありました。もっとも、爪は他人の伸ばしたものを送り、指は死体の指を買って送っていたのだそうです。本当に指が送られてきたら、恋なんか冷めてしまうんじゃないかってほどびっくりしますよね。正に「指切り」です。
他にも、相手の名前の「彫り物」を入れるという方法がありました。彫り物というと入れ墨の事ですが、「入れ墨」は犯罪者が入れられる墨の事で、自分の意志で入れる場合は「彫り物」と言いました。「火事息子」という噺では彫り物の解説がよく出てきます。彫り物を入れているのが普通のような職業も沢山あった訳で、現在の感覚と随分違いますね。

<落語の吉原>けんげしゃ茶屋
桂米朝

明けましておめでとうございます。ということで、正月の噺で・・・あまりキレイでない上に縁起の悪そうな噺です。大晦日から正月の噺で季節が決まっている上に、めでたい雰囲気をぶち壊しかねない噺なので、あまり演る人がいません。

辻占茶屋、親子茶屋とか茶屋噺は色々ありますが、上方の噺が多いような気がします。調べた事無いので、多分です。立川談志も言う通り、男女の営みの場面は落語では表現されません。これが現代人には意外と分かりづらく、茶屋遊びと称して芸者等と騒ぐという場面だけでは、女目当てなのか分かりません。当然、芸者と遊ぶだけが目的の人もいる訳で、この辺りが難しいですね。
東京では廓噺、上方では茶屋噺というところが特徴的です。東京の方が「吉原」とか「品川」というだけで、女を買いに行く場面だと比較的分かりやすいです。

さて、「けんげしゃ」というのは「験を担ぐ、縁起を気にする人」というような意味です。噺の前半、新町の茶屋で大変なしくじりをしてしまう場面が描かれています。この辺り、芸者と幇間、客との関係が分かりやすく、興味ある人は聞いて損はないでしょう。

吉原に行きましょう。吉原で茶屋というと、客に花魁を紹介する所と思われがちですが、それは違います。こういう場所は引手茶屋と呼ばれました。吉原のメインストリート仲之町に並んでいたのはこれです。まぁ、詳しいことは色々書かれているので飛ばしますが、落語で描かれる場合、基本的には宴会をするのがこの場所です。この場所に花魁を呼んだり、芸者や幇間を呼び、料理を運ばせるわけです。ちなみに料理は直接出さずに仕出しです。
とにかくややこしく、引手茶屋と言いながら、花魁を紹介したり、宴会の場所を提供したりで、このシステムを整理して書くには紙面が足りません。というより、まとめるには力量が足りないので、他の文献等を参考にして下さい。
ただ、懐に持ち合わせの少ない客は、直接女郎屋に上がるのが普通でした。大店のトップの花魁は、引手茶屋に呼ぶのが通例であったそうですが、残念ながら大正以降の慣習は分かりませんでした。

<落語の吉原>蛙の女郎買い
五代目古今亭志ん生

これは吉原を舞台とする廓噺のマクラで、よく使われる小咄です。クリスマスとは全く関係ない話で・・・。
「蛙の小便」というよく似た小咄もありますが、ほとんど同じような噺なので、どちらかがもう片方のアレンジだと考えています。蛙が立つと言うところがSFなのですが、立ったとすると目が後ろに付いている。それが面白い。講談で「あきれ蛙の頬かぶり」という文句がありますが、同じような発想です。この蛙、吉原田んぼの住人です。

その昔吉原は、吉原田圃(たんぼ)と言われるぐらいの、田んぼに囲われていたのです。新吉原移転の経緯を考えると分かりますが、そもそもは一面葦(よし、あし)の原だったのです。そして、吉原だけが夜になると煌々と灯りを放っている。砂漠の真ん中にある、ラスベガスのような遊興地でしょう。
「吉原が明るくなれば家は闇」
時代が下るにつれて、野原も田畑に変化していきました。「唐茄子屋政談」では、遊びが過ぎて、家を勘当になった若旦那が、田圃のあぜ道から吉原を眺めるシーンがありますね。

吉原はお歯黒溝に囲まれた異次元です。北州とか北国(ほっこく)とか北里とか言われるぐらいの別世界です。「裏田圃(うらたんぼ)」という表現もあります。これは入谷側の田んぼです。山谷堀の対岸の事との説もありますが、正確には入谷側でしょう。日本堤や山谷堀を通って吉原に至るわけですから、南東から北西に向かっているわけです。裏は吉原のその先の北西にある田んぼのことを指していたことでしょう。吉原の大門(入口)は北東にありました。だから南西側も裏田圃と呼んだようです。
吉原地図-1-v10
永井荷風の「里の今昔」(昭和9年)です。大音寺前の辻から見た風景です。
「道の片側には小家のつづいた屋根のうしろに吉原の病院が見え、片側は見渡すかぎり水田のつづいた彼方に太郎稲荷の森が見えた。吉原田圃はこの処を云つたのである」

ただ、当時単に吉原田圃とか、浅草田圃という呼び名もあり、どの文脈でどこを指しているのかというのは、はっきり言って分かりません。

明治大正期ぐらいまで、初夏に日本髪を束ねるのに、稲の新藁(しんわら)を使う風習が残っていました。新藁は、まだ青い苗に熱湯をかけて乾かしたものです。吉原田圃から「新藁-新藁-」と売りに出ていました。元来は邪気払いのようですが、次第に信仰上の意味はなくなります。初々しい新緑の苗は、キリッとした日本髪と相まって季節感のあるものだったでしょう。


<落語の吉原>厄払い
桂米朝

夜鷹と遊女についてもう少しだけ。歴史に入っちゃうと書ききれません。

厄払いの文句を米朝が解説していますが、ここにも夜鷹という言葉が出てきます。「厄払い」で、三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつかい)での「お嬢吉三」の台詞が出てきます。

「月も朧に白魚の篝も霞む春の空
冷てえ風もほろ酔いに心持ちよくうかうかと
浮かれ烏のただ一羽ねぐらへ帰える川端で
竿の雫が濡れ手に泡思いがけなく手に入る百両
ほんに今宵は節分か西の海より川の中
落ちた夜鷹は厄落とし
豆沢山に一文の銭と違って金包み
こいつぁ春から縁起が良いわい」

良いですね。こういう台詞は歌舞伎で見てもよく分かりませんが、落語で聞くと耳に残ります。次はマクラでよく使う川柳です。

「女郎買い振られて帰る果報者、須城に可愛がられて運の尽き」

前にも書いたかもしれませんが、「じょうろ」は「女郎(じょろう)」です。私はこの文句好きです。若旦那が女に目覚めて金を使う。店の金に手を付けない内は良いが、それでも女に走ってしまう男の気持ちが、業って感じですよね。身代を潰してしまうぐらい入れ込んでしまうのが男の性(さが)です。それが男らしい理想の姿だとも男は感じているのでしょう。

「女郎」という言葉も古いですね。一説によると、源氏に破れた平家の「上臈(じょうろう)」(女官)達が生活のため売春をしたから、と言われています。

秋の七草の一つ、「女郎花(おみなえし、おみなめしとも言う)」という花がありますね。「おみな」はオンナの事、「えし」は花が細かいことから粟のメシに似ているので、こういう名が付いています。「女飯(おんなめし)」から「女郎花(おみなえし)」です。他の説もありますが、比較的有力でしょう。

女郎という言葉は当然、古そうに感じますが、遊女という言葉も意外と古いのです。「あそび女(め)」の表現は紹介しましたから、いつもと違う文献から。

「一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月」

松尾芭蕉、越後路での1句です。新潟の市振(いちぶり)で、芭蕉は桔梗屋という宿に泊まります。泊まった部屋の一間隣に、若い二人の女がいます。よく聞いてみると伊勢参りの遊女二人です。その後の旅は一緒にしていないようですが(実際は分かりません)、この頃には遊女という言葉が普通に使われています。「あそび女」の派生でしょうか。

長くなった言い訳します。語源を調べた人なら誰もが感じる事でしょうが、そんなものは分からないのです。「かぼちゃ」と「カンボジア」だけでなく、「ボヘミア」と「ボローニャ」が同じとか、何でもありで、際限がありません。ですから、この辺りで次は吉原に戻ります。

<落語の吉原>風邪うどん
桂枝雀

この噺うどん屋ですが、夜の屋台の雰囲気分かります。さて東京では「夜鷹蕎麦」です。前回の続きです。

「夜鷹」は街角で客を引く街娼の事なのは誰もが知っていることでしょう。そもそも「夜鷹」とは、ヨタカ目ヨタカ科の鳥のことです。この鳥は夜中に虫を食べるんです。その上、鳴き声が「チョッチョッ」と鳴きます。「ちょっと、ちょっと」と暗い夜道で声を掛ける街娼の声に似ていることから、夜鷹と呼ばれるようになったという説があります。
夜になると出てくる鳥で、それも大きな鳥だったら、夜の鷹と比喩されることもあったでしょう。夜にだけ出てくる鳥というのは神秘性を帯びていますね。こういう呼称は発展しやすいものです。他にも、

「夜になると出てくるから」
「客に夜鷹が多かったから」
「夜鷹を買う代金と同じだから」
とか諸説入り交じってよく分かりません。

落語に戻って名人圓朝です。
『月謡萩江一節(つきにうたふおぎえのひとふし)-萩江露友伝-』の中から、
「夜蕎麦売りはなにゆえできたか知るまい。夜鷹蕎麦は夜鷹が食うからではない、お鷹匠の拳の冷えるに手焙りを供するため、享保年間往来に出て手当てをいたし、その廉(かど)をもって蕎麦屋甚兵衛という者が願って出て、お許しになったので夜鷹蕎麦というがな、夜お鷹匠の手を焙るお鷹蕎麦というのだ」
これは噺の中で、武士が無銭で蕎麦を食おうとする場面の言葉ですから、眉唾物ですが、面白いですね。

まあ、こうなるともう何が何だか分かりません。ただ、1700年代から風鈴を吊して営業していたようで、その伝統は明治になっても残っていたようです。
今と変わらず上方では、蕎麦ではなくうどんです。東京でもうどん屋が流行りました。「夜啼き饂飩(うどん)」と言われ、明治14年には「夜啼き饂飩」が863人、「夜鷹蕎麦」が11人、という時代もありました。率直に考えて夜中まで営業している業態は特殊で、当時の人々にとって面白かったのでしょう。風鈴というアイデアも、夜中だからこそ、寝ている人を起こさずに客を集める工夫だったのだろうと思います。「風邪うどん」のような噺は、そんな時代を彷彿とさせます。

夜鷹を買う代金、つまり女を買う代金が、かけそばと同じ代金とは驚くべき事です。ちなみに昔の夜鷹蕎麦は、かけそばしか出していなかったらしいのです。「時そば」は誰もが知っている噺ですね。お酒も出していませんでした。「替り目」ではうどん屋ですね。
永井荷風が「夜寒の路地には支那蕎麦屋の笛がきこえる」と書いたのは大正13年です。この頃からラーメン文化も始まるのです。

また長くなりました。書きたいことは数多ありますが、次回は短く追記にします。

<落語の吉原>死神
笑福亭鶴瓶

このブログ、吉原なのに、
「どうして「死神」なんだ」
とか、
「どうして鶴瓶なのだ」
と感じる落語ファンは大勢いる事でしょう。まずその話を少し。
この噺、三遊亭圓朝作で、比較的多くの人が演じています。では、どうして鶴瓶の死神なのか。鶴瓶の「死神」ではおじいさんの死神が、美しい女性として演じられています。死のうとしていた男が、最初、死神に出会う場面で、男は「お前、夜鷹やろ」と勘違いします。たったこれだけをヒントに書きます。なぜなら鶴瓶の客は若いので、夜鷹を知らない人も多いのではないかと感じたからです。鶴瓶版は大きく改作されているので新鮮です。ただ、未完成な感じは拭えないのが残念ですが、もっと面白くなりそうなので、その辺りを期待して、先に進みます。

以前、米朝の欄でも書きましたが、「女郎、遊女、花魁、うかれ女(め)、あそび女(め)、パンパン、辻君(つじぎみ)、夜鷹、孀嫁(そうか)、淫売」と、娼婦には様々な呼び名があります。時代ごとに流行の変化はありますが、夜鷹などは比較的聞きますね。NHKで三笑亭夢丸の「出世夜鷹」(別名「ちり塚お松」「夜鷹の松」「初音のお松」)などというマニアックな噺もやっていました。夢丸も慣れていないようでしたが・・・。
さて、今回は娼婦の呼び名です。色々あるので、順番に。

「うかれ女(め)」「あそび女(め)」平安時代の文献からもあるように、浮かれた女、遊んだ女という意味です。

「パンパン」諸説あって分かりません。Wiki等で色々載っていますが、日本人の感覚から考えて、ヤッている時の音は重要だったでしょう。

「辻君」辻に立って客を引いていた遊女の事です。こういう言葉の派生語は幾つもあります。上方で使われていたようです。

「孀嫁(そうか)」男やもめにウジが湧く、という文句は落語で良く出てきます。「やもめ」は「寡婦」とも書きますが、「孀」とも書きます。多分当て字でしょうが、特に上方で通った呼び名です。「惣嫁」とも書くので、「みんなの嫁」という所から安く身を売る女のことを指したのではないでしょうか。「惣」という字は「惣菜」とも使われているように、‘総じて’とか‘集める’とかいう意味で、現代で考えると「総」と同じような意味です。ですから昔の惣次郎・惣兵衛とかいう名前の人は長男が多いのです。話が長くなったので他説は省略します。
「武士鰹、大名小路生鰯、茶屋紫に火消錦絵、火事に喧嘩に中っ腹(ぶしかつお、だいみょうこうじなまいわし、ちゃやむらさきにひけしにしきえ、かじにけんかにちゅうっぱら)」
落語が好きなら聞いたことのある江戸名物の文句です。あまり知られていませんが、大阪名物もあります。
「舟と橋、お城惣嫁に酒蕪、石屋揚屋に、問屋植木屋(ふねとはし、おしろそうかにさけかぶら、いしやあげやに、とんやうえきや)」
他の言い方もありますが、名物だったようです。揚屋も遊女を呼んで遊ぶ場所の事ですね。

と、書こうと思えば無限に書けそうです。長くなりすぎました、夜鷹の話は次回に続きます。

<落語の吉原>あばらかべっそん
八代目桂文楽

こちらは噺の題目ではありません。しかし落語好きなら知っているフレーズですね。落語家の書いた本は、落語好きをターゲットにして書かれている場合が多く、一般的にはそれほど面白くないでしょう。しかし、知れば知る程面白くなるのが落語の世界でもあります。さて、落語家の書いた本で特に紹介されるのは、五代目志ん生の『なめくじ艦隊』でしょう。でも、この「あばらかべっそん」も名著です。談志の『現代落語論』のようなインパクトは無いですが、自叙伝とか半生を振り返るというようなスタイルの本では、間違いなくこの二冊が双璧を成すでしょう。
聴く噺ばかりだと、好きではない人や、なかなか聴けない人もいるので、本で読める廓の風景を紹介します。

噺家の書いた本というのは、比較的女を買いにいく風景が描写されています。これが現代の感覚と全く違うから面白いのです。談志や川柳などは経験者の生き残りですね。八代目文楽は1892年(明治25年)~1971年(昭和46年)の人です。だから明治大正期の廓の雰囲気がよく分かります。さて、前置きが長くなりました。まず一節、

「よく芸者は世帯(しょたい)持ちが悪いが、おいらんはいい、ワコ(女房)にするならおいらんをといいますが・・・」

こんなフレーズ聞いた事がありません。落語の世界だけで言うのか、一般的にも言ったのか、私には判断付きませんが、噺家は「~と、よくいいます」と言うものです。ワコがどうして女房の事を言ったのかよく分かりませんでした。知っている人があったら教えて下さい。

嘉亭円満(かていえんまん)という噺家がいます。その女が静岡の花魁なんですが、円満さん、冬物の着物の季節になると、まとめて花魁の所へ夏物を送るんですね。すると先方の花魁に預けておいた冬物を送ってくれる。こういう親切な花魁がいたんですね。全く家庭円満なんて関係ない所行ですが・・・。

他にも、噺家同士で喧嘩をして、その仲直りに女郎屋へ行ったとあります。翌日には楽屋にお返しの通し物で、寿司が届けられるのですから、昔は義理堅かったと文楽は書いています。

そうかと思うと、正反対の女郎がいます。初日のはねる(終わる)のを見計らって楽屋口に俥屋(くるまや)が手紙を持って待っている。それは見も知らない地元の花魁からの呼び出しで、行ってみるとたいそうモテる。それが毎日続く訳です。10日15日過ぎて興行の楽日(最終日)、例によって俥屋と手紙です。いつもより長い手紙を持っているから、別れの辛さでも書かれているんだろうと、読んでみると、今までのお勘定が事細かに書かれていたそうです。

まぁ、女にこんな事されりゃ、騙される可能性高いですね。それも親切な女郎が沢山いた時代なんですから。この辺りが現代人には分からないんですがね。でも、変に性を隠そうとしていない時代であった事は確かで、100年も経たない内に、こうも変わったかと驚くことは間違いないでしょう。秘め事が前提となってからの話は、談志なども沢山書いていますが・・・と、ややこしい話になりそうなので、またの機会に。

<落語の吉原>明烏
八代目桂文楽

「明烏(あけがらす)」と言えば文楽で、文楽と言えば「明烏」です。それくらい完成された芸として名高い噺です。三味線でも知っていれば、新内(しんない)の「明烏」を思い出すでしょうが、なかなかそんな人はいないでしょう。新内では「明烏夢泡雪(あけがらすゆめのあわゆき)」と言います。「こち亀」で纏(まとい、ヒロインの1人)が弾いていたのも、明烏でした。

新内の明烏も廓の曲です。新内は、そもそも「流し」で、廓や花柳街などを流して歩いていたんです。「流し」なんて昨今出会う事は無いですが、ギターの流しなら、新宿のゴールデン街に一人いらっしゃいました。残念ながらどんな曲を頼めば良いのか分からないのが悲しい所で・・・。

さて、この流しの芸者の事も太夫と呼びます。幇間(ほうかん)の事も太夫と呼びました。花魁も太夫です。こういうのも、験担ぎなんでしょう。
「太夫」というのは、最高ランクの花魁の呼称ですが、その発生はよく分かりません。文楽でもシテ方が太夫と呼ばれたり、浄瑠璃で三味線を弾く人は太夫呼ばれますね。「太夫」ではなく「大夫」と書く事もあるので、大輔(もしくは大副(たいふ))という偉い役職の名前と関わっているのじゃないかと考えているのですが。そもそも官職の名前なんて中国から名前が入ってきた気がするので、トップの人の事を「たゆう」と例えたのだと考えています。そうそう、花魁も金持ちの客の事を「お大尽(だいじん)」と言いますからね。ちなみにお金を使う人を表す時に「大臣」ではなく「大尽」と書くので、ここでは一応の使い分けがあります。「よっ!大統領!」のような感じです。

ついでに漫才の原型は、家々を回っていた厄払いのような二人組の事で、昔は万歳と書きました。才蔵と太夫というのが二人の呼び名です。

余計な所で長くなったので、落語の話もちょっと。この噺の主人公は、日向屋の若旦那で時次郎という男です。花魁の方は浦里といいます。どちらも新内「明烏」を下敷きにしています。

明和六年(1769)7月3日、伊藤伊佐衛門の子、伊之助と、吉原京町二丁目の花魁、三好野(みよしの)の心中事件が起こりました。心中に至るまでが凄まじく辛いのですが、当時話題になったのか良く知りません。しかし3年後の安永元年、初代鶴賀若狭掾(つるがわかさのじょう)が「明烏夢泡雪」を完成しています。
この「明烏」という落語は、二人が出会う場面をパロディ化したもので、史実ではありません。しかし落語も捉え方で、その後の2人の成り行きを考えると、少し切なくなったりするんです。

真面目一辺倒だった若旦那の時次郎も、吉原に行けば少し柔らかくなるだろうと周りが誘います。そして花魁に気に入られた所で落語は終わります。しかし本当の伊之助はこんなもんじゃありません。
「金を湯に つかったむすこ 垢がぬけ」
実際は垢が抜けたどころじゃありません。家の金を使い始めます。そして貯えも底を尽くのです。そうなれば女郎屋に上がる事も出来ません。
「相ぼれは 顔へ格子の 跡がつき」
「お見立て」の回で書きましたが、昔は格子の奥に花魁が並んでいました。伊之助も格子の間に顔を突っ込んで、三好野に言葉をかけていた事でしょう。

<落語の吉原>出囃子「吉原雀」
今回は番外編として噺家の出囃子です。出囃子が吉原と関係があるのか?と思う人がいるかもしれませんが、少しあります。着地点が見えませんが、まずその話から。

出囃子は元来、上方特有のもので、東京にはありませんでした。東京に輸入されたのは大正6年頃のようです。出囃子は、芸人によって決まっています。また、その日の演目等によって演奏されることもあります。で、ある程度芸風によって出囃子を決めるという事にもなるのです。廓噺を得意とする人は「吉原雀」や「さわぎ」などという曲にする傾向があります。

吉原を表現する時、三味線では清掻(すががき)という弾き方をします。張見世で客を待っている間、三味線の弾ける花魁は清掻で客の気分を盛り上げます。始めのうちは、唄を歌わず演奏するのを全て清掻と言ったそうです。それが唄と唄との間に演奏される曲となりました。分野外なのでよく知りませんが・・・。とにかく、妓楼が営業開始する夕方に、新造(しんぞ)が神前に並んで、清掻を演奏し、それを合図に花魁は2階から降りてきて、張見世に並びます。後年、吉原芸者が登場すると、彼女たちが閉店(夜12時くらい)まで清掻を弾いていました。花魁道中の時演奏するのが、正に清掻という訳です。ちなみに「菅垣」とも書きます。

吉原雀というのは本来「よしきり」という小鳥のことです。賑やかな鳴き声が原因か、葭(よし)の原にいた小鳥から転じたのかよく分かりませんが、吉原のひやかし客のことを指すようになりました。

ドラマの「タイガー・アンド・ドラゴン」で西田敏行が演じていた「林屋亭どん兵衛」の出囃子は「吉原雀」でした。「吉原雀」は『教草吉原雀(おしえぐさよしわらすずめ)』という舞踊の長唄です。割と長い曲なので、少しだけ紹介します。

「馴れし廓の袖の香に 見ぬようで見るようで客は扇の垣根より 初心かわゆく前渡り」

という文句があります。恥ずかしがって花魁をまともに見られずに、張見世の前を行ったり来たりしている男の情景が浮かんできます。扇子の陰から覗き見ているなんて、奥ゆかしいじゃないですか。


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