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春駒日記




富岡麻紀ひとり芝居「春駒日記」
新宿ゴールデン街劇場
2009年2月22日(日)・3月1日(日)19時~
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吉原講座4 甚右衛門の誤算
庄司甚右衛門が立ち退くよう指示された日本橋室町、これは日本橋のすぐそば、三越の並びにあたります(当時は元誓願寺前と呼ばれていました)。つまり立ち退きといっても、大手町から日本橋ですから歩いて10分程度の距離、その頃の町の小ささを差し引いて考えたとしても、ある程度遊女屋側の都合を考えた穏当な処置だったのではないでしょうか。
 
前回、この立ち退き話が決まってからあるアイデアがひらめいたような書き方をしました。けれど、よく調べてみると甚右衛門さん、ずっと以前からこの機会をまっていたようなフシもあるようです。そのアイデアとは……と、いまさらもったいぶるまでもなく、それは江戸中の遊女屋を一ヶ所にまとめて幕府公認の遊廓をつくる計画、そして自分がそこの名主に納まろうという野望です。麹町や鎌倉河岸の遊女屋とも話し合いを重ねていた甚右衛門さんですが、麹町や鎌倉河岸は京都から移ってきた遊女屋が中心、「江戸もんと軒を並べられますかいな」と一ヶ所にまとまることを嫌がられていたようです。

現代でも、金もうけの上手い人はお上とも上手に付き合っておられるようですが、この時甚右衛門さんが思い立ったのも、やはりお上に相談することでした。「この際ですから……」と、麹町や鎌倉河岸もまとめて移動させるよう訴えでたと記録に残っております。職業柄、接待などはたぶんお手のものだった甚右衛門さん、しかしこの時の訴えは、結局受け入れられる事はありませんでした。残念。

以上が日本橋室町への移転が決まった1605年(慶長10)の出来事です。そして、甚右衛門さんが次に「統一遊廓」の設置を願いでたのは1612年(慶長17)、実に7年も後のことです。この長いブランクは何を意味するのでしょうか。そういった推測は手に余るので専門家の方にお任せすることにして、ここでは、そのころの江戸城下の様子を眺めつつ、7年後を待つことにしましょう。前述のとおり、大規模な町つくり、城作りの真っ最中です。全国から集まった男たちの、汗と褌と怒鳴り声、舞い上がる土ぼこり、うつむき加減に早足で通り過ぎていく怪しい浪人などをイメージしつつ読んでいただければ、あっという間の7年かと思います。

1606年(慶長11)、江戸城建築の第一歩として、二の丸が完成、ここへ家康から将軍職を譲られたばかりの二代将軍秀忠がやってきます。その翌年、1607年(慶長12)2月には出雲の阿国が江戸で初めてのかぶき踊りを上演、半年後の9月には、江戸城に天守と大手門が完成します。1608年(慶長13)、小石川に伝通院が完成。1609年頃になると江戸で年を越す大名の姿も多くなり、江戸はますます賑わいをみせるようになりました。となると町の裏側も自然と活気づき、旗本くづれの旗本奴や、町人くづれの町奴といった、元祖やくざの社会も出来上がってきます。ここで頭角をあらわしてきた大鳥逸平という男、鎌倉河岸で顔をきかせていたこの「かぶき物」が処刑されたのが1612年(慶長17)のことです。さて、

というわけで、話を再び甚右衛門さんに戻せるときがやってきました。
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