春駒日記




富岡麻紀ひとり芝居「春駒日記」
新宿ゴールデン街劇場
2009年2月22日(日)・3月1日(日)19時~
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吉原講座9 江戸の男女比
1618年(元和4)、幕府の公許を得た吉原遊廓が開業しました。 
そして、「開業当初はもの珍しさも手伝って、大いに賑わいます。しかし、吉原はディズニーランドにはなれませんでした。ライバルにすっかり客を取られて、閑散とした状態が続くようになります……」という事を前回書きました。

このライバルを登場させて話を前に進める前に、もう少しだけ脱線させてください。
吉原開業の翌年、1619年(元和5)、有名な箱根の関所が完成しています。「入り鉄砲、出女」とは、誰もが小学校で習う言葉だと思いますが、この「出女」の女が、大名の妻を指しているというのも、恐らく多くの方がご存知とおもいます。江戸に住まわしている(要は謀反を防ぐための人質として…)大名の妻子が国許へ逃げ帰るのを防ぐというわけですが、このように、大名が妻子を江戸に預けなくてはならなくなったのは、外様の大名では1622年(元和8)からと言われています。

それにしても、この頃の大名の平身低頭ぶりをみていると、上司に頭の上がらないサラリーマンを彷彿とさせ、「仮にも一国一城のあるじなのに」と、ふがいなさを通り過ぎて不思議な気さえします。幕府成立からざっとみても「江戸城を作れ」「江戸の町をつくれ」「名古屋城をつくれ」「江戸の湊をつくれ」「京都の禁裏をなおせ」「大きな船はつくるな」「江戸に来い」「国へ返れ」「あれしろ」「これしろ」「腹切れ」……と、次々に命令がくだされ、1635年(寛永12)には、参勤交代が制度化されています。みんな大騒ぎであっちいったり、こっちいったり、それだけ幕府が強力だったという事でしょうか。

さて、こうして振り回されている大名たち、そしてその大名に仕えて一緒に走りまわっている武士たちが、開業当初の吉原の上客だったといわれています。遊廓が幕府の公許を得たという事は、武士たちにとっても、おおっぴらに遊廓で遊ぶ許可が出たということで、みな駆けつけたのも当然といえるでしょう。ちなみに、吉原開業からちょうど100年後の1718年(享保3)に行われた江戸ではじめての人口調査では、総人口が約53万人、うち73%にあたる約39万人が男だったと記録されています。これも、女房を国許においたまま江戸に単身赴任をしている武士が多くいたためで、このアンバランスさは、まだ江戸のまち作りの真っ最中だった元和の頃は、もっとひどかったと推測できます。

では、このあたりで脱線は終わりにして、次回は、そんな吉原遊廓のライバル、湯女風呂の紹介をして、話を進めてまいります。
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