春駒日記




富岡麻紀ひとり芝居「春駒日記」
新宿ゴールデン街劇場
2009年2月22日(日)・3月1日(日)19時~
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<落語の吉原>花魁の姿(服装)
NHKラジオ第1放送の「ラジオ名人寄席」の問題があったりして、何となく書きにくいのはどうしてでしょう。落語の著作権っていうのは難しいですね。特に録音のみだと、膨大なものがありますからね。それでも全く同じように話すなんて事は不可能で、いつだって同じように話したと言われる、名人桂文楽でもやっぱり違います。志ん生なんか、当然のこと、そりゃ違います。次男、志ん朝さんは「そうは言っても、いつも同じように話していましたが」と、そんな余談はさておき、前回に引き続き、花魁の格好の話です。

もう一回、五代目古今亭志ん生の『五人廻し』、別録音で2つ、
「しぢりめん(緋縮緬)の長襦袢に、上から友禅模様の仕掛けというのを羽織っております(中略)あっつい10枚ぐらいの草履を履く」
「緋縮緬の長襦袢に、そこに伊達巻を巻いて、上から友禅縮緬の何か派手な模様の仕掛けをちょっと羽織って、あっつい草履にコールテンの鼻緒なんかで」

八代目の三笑亭可樂『文違い』の一節、
「長襦袢の上に、仕掛けってものを羽織ります。どてらの親方みたいな襟巾の広い」

花魁というのは店の中でも素足に草履なんです。始めは足袋を履きませんでした。部屋の前で草履を脱いで部屋に入ります。だから廊下から聞こえてくる花魁の草履の音に、客は聞き耳を立てるのです。こんな唄があります。

「送る朝寒(あささむ) 迎える夕寒(ゆさむ) 里の廊下に 泣く素足」

花魁道中では、太夫が「花魁下駄(おいらんげた)」という30cmほどの高さの高下駄を履きます。黒塗りのビカーッとした三枚歯の下駄です。で、八文字で練り歩くわけです。

花魁の姿というと、何より緋縮緬の長襦袢です。襦袢は下着なので、その上に仕掛け等を羽織るのですが、隙間からチラッと見える真っ赤な襦袢が色気なんですね。六代目三遊亭圓生の『雪の瀬川』でも、緋縮緬の上に

「紺献上の伊達巻をくるくると巻いて前に挟み」

と話します。伊達巻は巾10cm位の細い帯の事で、結ばずに折り入れるんです。献上というのは、そもそも黒田藩から江戸に献上した帯の事です。献上柄という柄があり、その中の紺色って事です。
その上に着ている仕掛けは、打ち掛け(裲襠とも書く)とも言って、帯を締めずに上から羽織る小袖の事です。だから緋縮緬が丸見えです。と、こう書くと、小袖とは何ぞやという話になります。まぁ、結婚式で一番上から羽織っている着物だと考えていいでしょう。当然、白装束ではないのですが、吉原でも白無垢を着る日が年に一回ありました。

kunisada

「江戸新吉原八朔白無垢の図」三代歌川豊国-文政(1818~29)末期

旧暦の8月1日は『八朔(はっさく)』と言います。八月朔日(一日の意)の略で、徳川家康が江戸城に入城した日(1590年8月30日)として、正月に次ぐ祝日でした。この時期には食べられるという事で、柑橘類の『ハッサク』の語源と言われています。
さて、八朔の日、巴屋の高橋太夫が寒気が出る病気で臥せっていると、贔屓の客がどうしても会うと言って部屋まで上がってくる。客は花魁の白い寝巻き姿の色気にもう夢中。てなことで、この日は以降、白装束で店に出るのが慣わしとなりました。病弱さが色気として感じられていたことが分かります。まぁ、この説は怪しく、本当は、八朔の日に大名が白帷子(しろかたびら)を着て登城し、挨拶を行うという儀礼からきたようです。ちなみに、白無垢の小袖を着て酒など飲んで、いざ床入りとなると、お色直しで緋色の長襦袢に着替えたそうです。

この日から約1ヶ月間、吉原俄(にわか)が繰り広げられ、仲之町では太夫や幇間が踊りや演芸を披露しました。ですから見物客でたいそう賑わいました。
しかし、年に一回しか着ない白装束も、花魁の借金になってしまうのですから、やはり悲しいですね。
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